なんでこんなことになったんだ、と藤田は思った。
―奇蹟体験って本当にあるんだ・・・。
無神論者だった藤田にすれば、どうせあの基隆での睡眠薬体験と同じように、池住が女性たちに、夢見心地の中で悦楽の境地を味わい、それで夢中になってしまったのだと思ったものの、ヨーロッパに伝わる数々の奇蹟体験エピソードを読んだ記憶もよみがえって、まんざらありえないことではないなと思った。
しかし、一瞬、あのオーム真理教のことも脳裏に浮かんで複雑な気分になった。
―まさかとは思うが・・・聖媧教も一種の秘密結社ではないのか? そうであるとすると池住はどうなるんだ?
「葉さん、台湾からお電話です」
ホテルの女将がそう言って受話器を持ち上げた。
受付脇の電話機で葉は深刻そうな表情で何か小声で話している。
しばらくするとソファに座った鄭を呼んで、一緒に自分の部屋に向かった。
「皆さん、先に朝食を取ってください」
食事を終えた藤田が花城とコーヒーを飲んでいると、鄭が通訳の李と一緒にやって来て、
「藤田先生、誠に申し訳ないのですが、石垣や宮古のスケジュールをキャンセルしてください。至急、台湾に戻らなければならなくなったのです。これは今までのお礼と、キャンセル料です」
と分厚い封筒を差し出した。
「えっ、一体どうなさったのですか?」
「基隆の聖媧宮が火事になったのです!」
「何ですって?」
「幸い、すぐに消し止められましたが信者に怪我人が出たそうで・・・」
「それは大変だ!」
「今、江小姐がここから那覇経由で台北に戻る便の手配をしています」
「じゃ、それがわかったらすぐに石垣や宮古、それに那覇のキャンセルをしましょう」
こうして台湾からの視察団の訪問スケジュールは終わった。
その日の午後の便で与那国から那覇に戻った一行は、夕方の中華航空で帰国したが、池住はパスポートもビザも無いので、いったん東京に戻り、それらが整った後、台湾に向かうことになった。IBC社長の奥平にも電話で池住のことを伝えると、不承不承ながら了解してくれた。
封筒には300万円の札束があり、藤田は花城や上原にも謝礼を払うことができた。
那覇から羽田への帰路、藤田は黙りこくって機窓から虚空を見つめている池住に話しかけたが、微笑むだけで無言のままだった。
―こりゃあ、完全に魂を抜かれてる!
帰京するとその日から池住は無断欠勤をした。数日経つと、突然会社に現れ、
「今までたいへんお世話になりました。準備がすべて整いましたので、これから台湾に出発します!」
と、唖然とする奥平や藤田に挨拶すると、すぐに踵を返して去って行った。
そのままエレベーターに乗ろうとする池住を止め、
「一応、社長にちゃんと説明しろよ!」
と語気を強め、腕を取って会社に連れ戻そうとしたのだが、
「もういいでしょう!」
と、手を振り払い足早に今度は階段を駆け下りて行った。
肩を落として会社に戻ると、奥平も
「あいつ、おかしいな・・・まるで魂を抜かれたみたいだ」
と藤田と同じような表現で呟いた。
ふとそばの机を見ると、女性社員の佐藤が顔を覆っている。
―そうか・・・この子は池住が好きだったんだ。
藤田の脳裏に、妖艶な葉の顔が浮かんだ。
―あれはやはり淫祠邪教だ! こうなったらとことん調べてやる。このまま調子に乗って進めたら、与那国はとんでもないことになる・・・。
数日後、藤田は台北に居た。
通訳の李や唐にも内緒である。彼らも葉の妖術に手繰られているかもしれないと思い、台湾の交流協会に行き、通訳を紹介してもらった。
分厚い眼鏡をかけた趙と言う大学院生で、東京の大学に4年間留学したと言うだけあって、流暢な日本語を話す。専攻も日中の交流史で、中国の古代史にも詳しい。
藤田がざっと今までの経緯や、聖媧教のこと、さらに与那国での出来事などを説明すると、ニヤリと笑い、
「竹聯幇と関係ありそうですね」
とつぶやいた。
「竹聯幇?」