与那国奇譚 杳

 その後の藤田のことは杳としてわからない。

 さて、杳と言う字は、漢字の成り立ちに詳しい白川静の「字統」によれば、陽は木の下、森の中に沈み冥き、となる。
 つまり、忽然として夫婦共々姿を消したのだ。
 息子夫婦や親戚は失踪届を出して各地を探しまわったものの、どこにもその痕跡は無い。ただ、しばらく経って、新宿のコインロッカーから息子宛ての書類が発見された。タイトルは「龍の夢―与那国海底神殿奇譚」不尽雪夢作とある原稿用紙の束には「あとをよろしくたのむ」と殴り書きがあった。不尽雪夢と言うのは父が昔書いた小説で使ったペンネームである。それを読んだ息子は、あまりの荒唐無稽な内容に、それがまさか実話だとは思わず、逆に、行方不明になる前の父はどことなく精神疾患を患っているような感じだったので、妄想の書類としてそれを書斎の書類箱にしまい込んだ。
 しかし、中国のあまりに傍若無人な世界進出が始まり、トランプの、これもあまりに下品は暴走が始まると、急に現行のことを思い出し、それを友人の法務省官僚に見せると、
「面白いサスペンス小説だね。お父さんの思い出に自費出版でもしたら」
と言う感想が返ってきた。
 出版費用など出せる余裕はなく、息子はそれを再び書類箱にしまい込んだ。
                                  完

<後記>
 これは30%ほど、本当にあった話です。
 与那国への台湾の関心、移民事業、中国の「脅し」、秘密結社の暗躍、新興宗教団体の活動、中国の超能力研究所や、台湾や沖縄の独立運動・・・。
 私は台湾や中国に延べ100回以上渡航しており、実に多様な商談に接し、数多くの人々と協力してまいりました。そのような時、沖縄の友人から、与那国の島民を紹介されたのです。話は、何とか台湾から投資を島に呼び込めないかと言うものでした。過疎の島では人口減少と島の経済悪化が深刻になっており、すぐ近くにある台湾の経済発展を羨ましく見ていたからです。
 台湾に行き、取引先の会社社長に相談すると、「何も無いちっぽけな島なんか関心無いよ」と言われました。他でも同様の反応でした。
しかし偶然、ホテルでのある会社の晩餐会で同席した移民専門の会社社長だけは、「日本に移民できたら台湾中の人が申し込みますよ」と熱い口調で語りました。当時は李登輝政権となり、民進党も勢力を伸ばしていたこともあり、中国は台湾海峡でミサイル実験を繰り返し、いつでも侵攻できるんだとのデモンストレーションを繰り返していたからです。
「金も技術も無い国のミサイルなんかちっとも恐くないよ」
と口では言うもの、金持ちたちは年老いた両親や子供たちをアメリカやオーストラリアに避難させ、いざと言う時に備えていました。だから、移民事業は大盛況で、多くの会社が金ぴかの外装で宣伝し、実際に数万人にも及ぶ人々が渡航していたのです。
「本当に中国が攻めて来たら、真っ先に空港を占領するに決まっている。そうなれば逃げられない。次は略奪が始まる。ベトナムのボートピープルみたいに海に逃げても、中国の仕返しを恐れて追い払われるに決まっている。でも、もし、日本のビザがあれば、追い払われずに受け入れてくれるだろう・・・」
 台湾から僅か110キロのところにある与那国島。
 領海まで55キロ逃げ延びればいいのです。モーターボートで。
 その業者は、どうしたら日本のビザが取れるのかと矢継ぎ早の質問をしてきました。帰国して調べると、投資経営ビザがわかったのです。日本に会社を作り、2人以上の日本人を雇い、厚生年金や健康保険にも加入して毎年ちゃんと決算書を税務署に提出していれば、経営者や、その派遣する役員などに長期滞在できるビザが発行されると聞いた業者は、それこそ我々が望んでいたものだと狂喜しました。
 やがて沖縄に琉球開発投資株式会社が台湾、東京、そして沖縄の5人の会社経営者の共同出資で設立されましたが・・・。
 十分な説明と営業方針が示せぬまま経営者同士の意思疎通もままならず、結局その会社は営業できぬまま解散に至ったのです。
 それはまた、その頃から始まった、まるで手のひらを反すような中国の台湾資本大歓迎運動でした。日本のバブル破裂の後、台湾もバブル経済となったものの、それも破裂しかかっていた時なだけに、多くの台湾企業が中国に進出し始めて、移民熱は萎み、移民会社も多くも店じまいを始めたからでもあります。
 こうして与那国島構想は幕を閉じ、島はそのまま取り残されましたが、21世紀にはいり、徐々に沖縄のリゾート化は進展、与那国の海底遺跡も脚光を浴びるようになったばかりでなく、尖閣問題から自衛隊の常駐も始まって島の経済も上向いてきたのです。
 一見、平和で何事も起こらないような日常の中でも、その裏には普通の人々にはわかりようもない「陰謀」が渦巻いていることを体感した時でもありました。

与那国奇譚 告白

 蘭蘭は今までのすべてを趙に告白した。
 最初は驚愕のあまり絶句、唖然としていた趙だが、やがて蘭蘭が話し終わると、
「やはりそうだったのか・・・実は、俺も君の接近の仕方が少しおかしいと、中国に居る同志を使って君のことを調べていたんだ。君が深圳にある諜報司令部から香港に行き、やがてここに来たことまでは掴んだ。そして同棲してから君が俺の書類を全部チェックしていることも知っている。だから、深圳行きは罠だとわかっていた。心苦しかったたけど、ここを出たら、香港経由で深圳に行くのではなく、俺たちの本部で君を取り調べることになっていたんだ。でも、今、君の口から本当のことを聞いて、君の俺への愛情の深さがわかった。蘭蘭、いや蓮蓮、いや池住君、俺は君が男だったとしてもかまわない。子供を産むことができなくってもかまわない。もう君を絶対に離さない!・・・でもこれからどうやって君を守るかだ・・・」
「もう見張りがついてるの。だからこのまま家を出るしかないわ・・・そうだわ。いい方法がある。空港に着いたら、私が『航空券が無い!』と騒ぐから、あなたは降雨空会社のカウンターに行って、すぐに羽田行きの航空券2枚を買って。見張りは中まで入れない。だから、羽田行きのゲートに行けば問題ないわ。見張りは香港空港に居る仲間に電話で伝え、そこでいつまでも待ちくたびれている間に私たちは東京。そこからはまかせてね」
 趙は蘭蘭の秘策を聞いて安心すると同時に緊張した。もう独立運動に加われないからだ。でもここで彼らに連絡してもまずい。

 こうして2人は無事に東京に着き、そこから長野県の北アルプス近郊のある農村に移った。蘭蘭こと池住は日本のパスポートをまだ所持しており、化粧を落として男の姿に戻り、大川卓と名乗り、趙も大川益男と言う兄弟だと周囲の人には挨拶した。
 要するに、中国からの追跡を避けるため、何度も住む場所を変え、変装もして行方を完全にくらましたのである。
 2人はそれでも、藤田だけには連絡を取り、野中の一軒家に来てもらって、いままでのことを話した。藤田が2人を祝福し、結婚式の立会人になったが、このことについては一生語らないと誓ったことは事実だった。

 それから、さらに数年が経った。
 中国はますます経済成長し、世界の顰蹙を買うようになった。
 豊富な資金をアフリカや東南アジアなどの国々に貸し付け、返済が滞ると超長期の借地権を得て自国民を入植させる。南シナ海では南沙諸島を実効支配し、太平洋の弱小国も次々に実質的な属国にしている。
 でも、中国は本当に経済大国なのだろうか?
 毛沢東が政権を握ってから一貫して行って来たのは粉飾決算だ。計画経済の名のもとに予定した通りの成果を上げて来た裏には、かなりの作られた計算が存在し、そのつじつまを合わせるためはアメリカと同じように、中国通貨である元をドルと同じように国際通貨にしなければならない。そうすればドルと同じように裏付けのない紙切れが価値を持ち、負債は無いも同然になる。
 そして粉飾はばれないまま数字だけが独り歩きし、やがてはアメリカを凌駕する世界一の大国になる。それが中国共産党の野望なのだ。
 貧困にあえぐ農民たちは、みな債権を有する諸外国に移住させればいい。
 そうならなければ・・・以前に、毛沢東が大躍進運動や文化大革命の名のもと、大量に餓死させ、暴行死させた数千万人、いや1億人かもしれない犠牲者同様、ひそかに処理すればいい。
 そこまでは考えたくないが、中国からの移住者でどんどん膨らむ香港の人口と徐々の締め付けを見ていると、この国が温厚な友好国として各国に経済援助しているわけではないことが見て取れる。
 中国の肉迫に、トランプが手の込んだいろいろなブラフを行ってはいるものの、したたかな中国はそのようなことなど意に介せず、着々と世界制覇の地歩を固めているように見える。
 かつて王朝転覆の原因となった宗教と農民の団結と反乱を逆手に取って、宗教を侵入の手段とし、ついで投資、それから・・・これが浸透作戦なのだろう。
 現に、沖縄県知事は中国からの投資話に飛びついているとも言われ、一時は壊滅状態だった沖縄独立運動もまた、勢いを増していると言われている。
 藤田は自分が体験した与那国を舞台とした移民事業と、あの聖媧教の妖しい魅力に取り込まれそうになった経験を振り返って「与那国奇譚」と言う小説を書き始めた。
 その日もパソコンのワープロでキーボードを操作している時、スマホが鳴った。手に取って、応答すると、
「藤田先生・・・」
とだけ言って電話は切れた。
 翌日、趙たちの住む農家に赴いた藤田は、焼け落ちた家の跡を発見した。
「昨日、森ん中に火の手が上がったんで駆け付けたんよ。でも消防車が来た頃には全焼。大川さんたちは黒焦げでのう・・・」
 花城や上原も脳国測や心臓麻痺で他界。奥平も交通事故死。
―次はボクの番か!

与那国奇譚 色即是空続き

 趙と蘭蘭は同棲するようになった。
 かいがいしく趙の身の回りの世話をする蘭蘭に、趙は、
「俺の収入だけでなんとかするから、クラブをもう辞めてくれないか?」
と頼んだ。
「・・・」
「そりゃ、今は君の稼ぎで暮らしているようなもんだが、実は・・・」
 蘭蘭はすでに趙が無造作に置いている書類や、引き出しの底に隠している秘密書類は全部調べており、それをこっそり持ち出してコピーして台北に居る中国の同志に渡していた。そしてこの日聞いたのは、台湾独立運動のまさにマル秘の情報だった。それは民進党との秘密合意、そして香港独立運動との連携で行う大規模デモの詳しい内容で、幹部の一人の趙にも特別ボーナスが支給されると言う。
「そんなこと聞いても私には関係ないわ。私はあなたに危険な仕事から手を引いて欲しいの。そうそう、昨日来たIT企業のオーナーは、深圳に現地会社を作るんですって。優秀な幹部社員を募集中だから、誰か紹介してくれって、女の子たちに言っていた。でもみんなそんな人、私たちが知ってる訳ないじゃないって笑ってたわ。でもあなたなら絶対にうかる。高給で家族を連れて行っていいそうよ。深圳って今じゃ香港より近代都市になっているんですってね。私が小さい頃は辺鄙な漁村だったけど」
「やめてくれよ、そんな話。中国は大嫌いだ。どうしたらここから国民党や外省人を追い出して、中国の植民地から脱出するかが大事なんだ。金のため、中国なんかに行くなずがない!」
「あなた、絶対に逮捕される! 逮捕されなくても竹聯幇や四海幇の殺し屋に刺されるわ。奴らは皆、大陸の幇会とつながっている。そして幇会はみな共産党の末端組織って言うじゃないの。もうやめて!」
「やめない!」
「じゃ、私と独立とどっちが大切なの?」
「・・・両方だ!」
「そんなの嘘よ。成功したら、絶対に私は捨てられる! もっと若い子に気持ちが移るのに決まっているわ!」
「そんなこと無い! 俺には君だけだ!」
「いいこと、もし運動を辞めないなら、私、もうあなたと暮らせない! ここから出て行く」
「お、おい、なんでだ?」
「だって、あなたが嬲り殺されるの見たくない!」
「わ、わかった。お前に出て行かれたら・・・もう運動なんかできない・・・」
「さ、そんなこと忘れて私と一緒に別世界に行きましょ!」

 こうして趙は徐々に蘭蘭の色香に嵌り、ついにはIT企業の面接も受け、見事にうかって深圳に赴任することになった。
―こうして私の言いなりになるなんて、本当に愚かなのね。でも1年近く一緒に暮らしてみると・・・深圳で凌遅の刑にするの、少し可哀想になってきた・・・。
 実は、蘭蘭も徐々に共産党の洗脳が解けて来ていた。
 毎夜のように趙から中国共産党の怖ろしさ、無慈悲さを聞いているうち、あの葉導師の裏の姿が重なって来たからである。
 外面如菩薩内心夜叉の言葉通りに、穏やかで暖かい外見とは違い、女信者たちを洗脳する姿はまさに夜叉のように酷いものだった。何人もの信者が秘密裏にどこかに消え、まるで能面のように無表情な「歓楽隊」に代わり、葉の言う通りに動く姿は、まさにロボットそのものだった。
 やがてそれは中国での極秘訓練に代わり、こうして命令されるまま台湾に戻った訳だが、趙の持つ資料を読むたび、自由と測率を求める純粋な活動の魅力がわかり、反対に、陰惨な共産党政権の実態が浮かび上がって来た。
―何のことはない。今の共産党政権は歴代の王朝と少しも変わらない。皇帝とその家族が支配する独裁国家。違うのは後継者が家族でないことだけ。農民革命などと言いながら、何十億もの金を稼いでいるのは共産党員が経営する会社と一握りのエリートだけで、十何億もいる農民は今も年収10万円前後の収入であえいでいる。こんな国が台湾、沖縄、そして最後の狙いは日本まで占領しようとしている!
 ほんの少しでも不平を言ったり、逆らえば待っているのは死の制裁。
―趙さんをこのまま大陸に引き渡していいものだろうか?
「ねえ、いつになったら俺たちの子ができるのだろうかねえ?」
 深圳に引っ越すための荷物作りをしている時、急に趙がそんなことを言った。
「そ、そうねえ・・・」
 急に胸を突かれる思いだった。
「私が男だったことを、この人はまだ知らない・・・」
 女になりきるため、毎月、さりげなく、
「今週はダメ。汚れるから」
と愛の営みを拒んできた。
「あのう・・・実は・・・」
―本当のことを言うのは今だ、今しかない!

与那国奇譚 誘惑

 趙は一目で蘭蘭に惚れてしまった。
 台湾独立運動にのめりこんで40歳過ぎになるまで独身だったこともある。
 また、今まで高級クラブなどとも無縁で、その豪華な雰囲気に呑まれてしまったからかもしれない。
―女とは・・・こんなに美しいものだったのか!
 その様子をいち早く見抜いた蘭蘭は、さりげなく趙の隣に座ると、身を寄せ、趙の手を触った。思わず,ビクッと体を硬直させた趙を、
「あら、お上手ね。いつもそうして女の子を口説いているんでしょ?」
とからかい、流し目で趙を見つめた。
「おい、おいご両人、もうアツアツかい?」
 台湾のシリコンバレーと言われる新竹のIT企業オーナーが、
「妬けるなあ・・・俺、お前さんを口説こうと思ってたんだ」
と口惜しそうな表情をした。
「張董事長、あたしはもうお見限り?」
 張と呼ばれた男の左隣に座っていた少し年増のホステスが口をとがらせて張の左腕を抓った。
「いてててて!」
「もう我慢できない!」
 そう言ってホステスは張を抱きすくめるとディープキスをした。
「いやあ、まいった、まいった。でもこの感触がたまらないんだよな。やっぱりお前が一番!」
 おしぼりで口紅を拭いながら、張は満足げに、
「趙先生、蘭蘭をよろしくな!」
と言って、年増女に手を引かれながらカラオケのステージに向かった。
 張が歌い始めたのは「北国の春」だった。台湾や中国の中年男性の好きな曲はちゃんと中国語の歌詞になっており、少し調子はずれだが、ホステスと合唱するとそれなりにうまく聞こえる。趙をここに案内したもう一人のスポンサーも隣の女性を促してダンスフロアで踊り出した。
「趙先生、私たちも踊りましょうよ」
 耳元でそう囁かれると、甘い香水の匂いがした。
 フラフラッと立ち上がった趙はもう無我夢中だ。ダンスなどしたことがないので、ただ体を前後にフラフラさせているだけなのだが、時々ふらついて蘭蘭のハイヒールを踏んでしまうが、彼女は顔も顰めずにうっとりした表情で、
「お上手ね。一体何人口説いたの?」
と、耳をくすぐりながら囁く。蘭蘭の両手は趙の首に絡められており、それでそんな悪戯ができるのだが、ふっくらとした胸を強く押し付けられ、時々太腿が股の間に押し当てられ、趙の胸の鼓動は激しくなり、
「あら、この固いの何なのかしら?」
とまで吐息と共に囁かれると、趙はもう我慢できなくなっていた。
「私を愛してくださる?」
「う、うん!」
「じゃ、ここを出ましょうか?」
「う、うん・・・」
 このクラブにはいくつかの部屋が用意されており、お持ち帰りならぬ「ドライブスルー」ができるのだ。つまり、何の手間もかからず手早くことを済ますことができると言う意味である。もちろん、それはちゃんと請求書に、シャンパン1本と記載され、ホステスの等級により、モエドシャンドン級の超高級価格から、ソーダ水に甘味のついた安物値段まであるが、蘭蘭はもちろん最高級シャンパン級である。

 しばらく経って別室から出て来た趙の顔は呆けていた。
「あれ、もう終わりかい? シャンパンの味はどうだった?」
「・・・」
「やはりねえ。香港小姐は最高なんだ!」
「対(トエ=イエス)」
「で、どうする? 俺たちはこれからホテルに行くけど、趙先生も蘭蘭と行く?」
「は、はい!」

 こうして趙は完全に蘭蘭の虜になってしまった。
 毎日のようにクラブに通い、お金が無くなった頃、蘭蘭が
「もうお金を使わなくていいわ。私が昼間、あなたのアパートに行く!」
と甘い声で囁いた。
 趙はもう有頂天である。
「け、結婚してくれ!」
とプロポーズすると、にっこり笑って
「ええ、いいわ。でも・・・」
と今度は悲しそうな顔をする。
「でも・・・何だい?」 「いえ、いいの・・・そのうち話すわ」

与那国奇譚 その後の葉と池住

 葉がアメリカに逃げた頃、アメリカは9.11後のイラク戦争で、中国のことなど構っていられなかった。葉の洗いざらいの告白も記録に留めるだけで、中国の諜報網を回避するため、CIAの保護下に置かれたものの、自由な行動は許されず、無聊をかこつ毎日になった。
 しかし、監視要員を自由に操作するにはと、色仕掛けを試みたものの、超能力者の洗脳に注意せよと、監視員たちも常時、洗脳されないようチェックされていたので無反応だった。
 数年が経過した頃、GNPが世界第2位になった中国の輸出攻勢のみならずIT技術を駆使した様々な謀略が目立つようになり、ようやく葉の出番になった。
 この頃には葉の英語の語学力も長足の進歩を遂げており。ハッカーの逆探知にも参加し、この分野ではなくてもならない人材になっていた。
 もう、中国の殺し屋たちの心配も無いと安心しきって業務に専念していた時、突如、新しい任務が飛び込んで来た。
 連れて行かれたのは語学訓練所で、なんとアラブ語の習得を指示されたのである。同時に、整形手術も施され、葉はイスラム系の美女に変貌させられた。
―こんなことはここに来る時にわかっていたわ。どうせ、使い捨て。でも最後まで生き抜いて見せる!
 やがて彼女が派遣されたのは思っていた通り、イラクだった。
 しかし、彼女は活躍できないままその生涯を閉じた。
 何となく危険を察知し、逃げようとした、その瞬間、どこからか飛んできたロケット弾が爆発し、彼女の体は飛散した。
 現地の新聞に、小さく、「5人の村の女性、ロケット弾に被弾して死亡」という記事が載っただけだった。

 竹蓮蓮(チューリェンリェン)と改名させられた池住はどうなったのだろうか? 様々な訓練を終えた彼、いや彼女が送り込まれたのは香港だった。
 台湾から来たとされた蓮蓮は、香港の反中国派の遊び場である高級クラブに雇われ、そこで反中国の富豪や政治家たちの秘密を探ることが任務となった。
 そばに座って、黙って会話を聞いているだけでない。お持ち帰りされた寝物語で、さりげなく聞いて、それを全部、クラブ経営者に報告するのだ。
 超小型の録音機をハンドバッグに忍ばせたり、シガレットケースやライターに装着し、普及し始めた携帯電話も使った。
 この頃の香港では、突如、反中国派が親中国派閥に寝返る現象が多発していた。
 顔から声、仕草までそっくりにされた偽物が入れ替わり、本人は闇の彼方に消えるのも、その前に家族たちも巧みに始末した後で、使用人たちもいつの間にかそう入れ替えとなっておればバレる恐れはほとんどない。
 それでも、何件か発覚し、大騒ぎになったが、翌日には報道されることはなく。1国2制度などとされながら、中国の実質的な香港支配はどんどん進んでいた。
 成績抜群な蓮蓮の次の任務は台湾だった。
 同じような浸透作戦をするため、現地に詳しい蓮蓮は破格の待遇で送り込まれることになった。
 香港一の高級クラブから台北一のクラブに移籍した竹蓮蓮変じて竹蘭蘭は、すぐにナンバーワンになり、台湾の財界人たちの奪い合いが始まった。
 もう誰も彼女を、かつてのおかまバーの池蓮蓮と見破る者はいない。もちろん、香港一の美容整形医の執刀で前とは異なる、さらなる美女に変貌しており、綺麗な北京語や香港語を話すからである。
 台湾一の高層マンションに住み、専属運転手がハンドルを握る高級車で出歩く彼女に多くの女性が羨望の眼差しを向けた。
 そんな生活を堪能していたある日、見覚えのある男が何人かの常連客と一緒にクラブに入って来た。
「この人は趙さんと言うんだ。台湾独立運動の人でね、香港独立運動の人を探していると言うんで、香港財界人のスターだった君を紹介することにしたんだ」
 蓮蓮、いや蘭蘭は、
―趙・・・確か藤田に導師のことを告げ口した男じゃないのかしら?
と思った。そうだとすれば、その後の聖媧教の壊滅もすべてその男が原因だったのではないか?
―よーし! 徹底的になぶり殺しにしてやる。
 それにはまずこの男に取り入り、自分無しでは生きられなくなるくらい骨抜きにし、あるとあらゆる台湾独立運動の情報を聞き取ってから、あの「凌遅の刑」にかけてやる! と決心した。
「凌遅の刑」とは、まず皮を剥ぎ、耳や鼻、唇や手の指、足の指などを切り落とし、次に両腕、両足と、徐々に切り刻んで、長い時間をかけて殺す、極めて残酷な死刑のことで、中国の歴代王朝で実際に行われていたが、最近も反革命運動員に密かに行われているらしい。蘭蘭も多分、特務機関の研修施設で体験したと思われる。
 目をランランと輝かせた蘭蘭は、じっと趙を見つめながら近づいていった。
「初次見面 我是竹蘭蘭 請多關照(初めまして。竹蘭蘭と申します。よろしくお願いします)」
「漂亮!(美人だ)」

与那国奇譚 与那国再び

 CIAに緊急避難した葉、そして中国の秘密諜報員になった蓮蓮のことはさておいて、その後の日本人関係者たちはどうなったのであろうか?
 そして与那国島は?

 藤田はIBCを辞めた後、カー・サービスの会社の常勤顧問となり、そこの中国進出の手伝いをすることになった。共産革命を成功させた功労者の息子たち、いわゆる太子党の大物と知り合い、その紹介でカー・サービス会社の現地法人の副総経理となって赴任、某市の新都市計画に関与するようになり、日本企業誘致を行うようになったが、構想だけで、何の具体的な計画書も無いことから、進出したいと言う企業は皆無で、大掛かりな日本での発表会も効果なく、加えてカー・サービス会社自体が経営者の脱税問題で収監された後、会社は急激に業績悪化で藤田も帰国せざるをえなくなり、退社した。
 その後、高齢者の再就職を支援するNPO団体に加わり、理事となって活動を推進した時、かつての移民事業推進を思い出し、「歓迎您株式会社」を仲間と設立したが、理事長が大の中国嫌いで、台湾でしか投資経営ビザによる日本進出を行わず、協力を申し出たかつての移民事業代理店も事実上の休業状態で、成果なく会社解散となり、藤田の移民事業は終わった。
 花城は上原と組んで何とか与那国の活性化を行おうと、その後も努力していたが、2012年に尖閣列島の国有化がされ、それに中国や台湾が猛抗議して一蹴即発の緊張状態になった時、尖閣への領海侵入する中国や台湾の船を監視するため、沖縄全体の自衛隊組織が見直され、自衛隊駐留地を離島にも置くべきであると言う自民党の主張から、与那国島へ自衛隊基地を作ることになった裏には、彼らの県への説得や町役場への働きかけがあった。
 その結果、与那国町議会は僅差で自衛隊駐留を認可することとなって、2016年から自衛隊員とその家族合計200人余りが赴任し、迷惑料10億円に代わる多額の借地料も毎年払われることになり、島の財政は豊かになった。
 加えて、あの海底遺跡を訪れる観光客も増加の一歩をたどり、島の観光業も右肩上がりの繁栄を遂げるようになったのである。
「今から考えると、あんなことにならんでよかったなあ」
「まさに、まさに」
「藤田さんは今頃何してるんかなあ?」
「何でも『ご隠居の底力』ちゅう本を出したんさ」
「なんだそり?」
「こりからは世界中が年寄りばかりになるんさー。なんでも日本が最初。だから、年寄り再就職と社会貢献が世界のお手本になるってことを書いてるらしいさ」
「一時は中国に肩入れしたと言うじゃないかい。懲りずに」
「そういや、あのインチキ教祖の葉ちゅう女、どうしたんじゃろ?」
「趙能力者と言うから、どっかで、また人を誑しこんでいるじゃねえのかい」
「女になった男どもは?」
「みんな台湾で消えちゃったらしいけど、あっちでおかまバーかなんかやってるんじゃないの?」
「何でも、あそこの具合は抜群らしゅい」
「ハハハハハ、俺はもう卒業した」
「何を?」
「男をじゃ」
「?」
「もう立たん!」
「あり、もうかい? じゃ今度、ハブの火酒とスッポン鍋やらんかい」
「効くのか?」
「もう・・・80爺さんが立った!」
「何と!」
「あぬ松山の与那嶺しゃんのおかまバー、いやババ・バーならちゃんと相手をしてくりるちゅう話じゃ」
「じゃ、今度行ってみっかな・・・」

―あれから、もう23年か・・・。
 東京近郊の自宅で、藤田はひとりPCで書き物をしていた。
「はい生姜ココア」
 妻の差し出したのは減量、特に腹を引っ込めるのに効果あると言われる飲み物だった。事実、80キロあった体重は74キロになり、100センチ越えの腹回りは95センチに。23年前には60キロ、ウェスト80センチだったスリムな体型は、隠居生活の快適さからか急速に変化しており、薄くなっていた頭は今や完全なスキンヘッド。
―こんなこと書いても、誰も信じてくれないだろうなあ・・・。
 藤田が書いていたのは、あの与那国をめぐる奇怪な陰謀話である。
―そうそう、葉と池住のその後を最後に書かなくては・・・。
 砂糖も蜂蜜も入れない生姜ココアはほろ苦い。
 そして趙から聞いた二人のその後はもっと苦いものだった・・・。

与那国奇譚 竹蓮蓮

 池住変じて池蓮蓮は再び気を失った。
 気が付くとベッドに寝かされていた。
「あっ、よかった。気が付いて。どう、お腹が空いたでしょ?」
 頷くと、お茶のような液体を飲まされた。
 喉から食道を暖かいものが徐々に胃に下っていくのがわかる。
 パジャマのような物を着せられており、世話をしてくれる女性は、どうも蓮蓮と同じように元は男ようで声が太く、喉ぼとけもある。
「ほら、たんとお食べなさいよ」
 別の女性(?)が持って来たのは水餃子のスープだった。
「ゆっくりお飲みなさい。食べ終わったら、これからどうなるのか教えてあげるからね」
 そう言って微笑むとその女(?)は部屋を出て行った。
 スープを飲み干し、肉饅頭を腹に詰め込むと元気が出て来た。
 部屋の隣にシャワーとトイレがついており、体を洗い、歯を磨いた後、部屋に会った化粧セットで顔を作り、クローゼットの服を着ると、気持ちが落ち着いた。
―ここのおかまバーで働かされるのね。徐はきっとここのおかまバーのオーナーに違いない。それに竹聯幇の組員。もう構わない。ここで生きて行くしかない。
「お、おめかししたらきれいになったな。抱きたくなるぜ。悪いけど、また眠ってもらうぜ」
 部屋に入って来た男はそう言うと蓮蓮の腕に点滴をした。なんとなく体がだるくなり、そのまま眠ってしまった。

 再び気が付いたのは暗い部屋の中だった。頭が左右に揺れている。
 頭上には裸電球は暗い光を放っていた。
―ひょっとしてここは船の中?
 部屋には鍵がかかっており、外には出られない。
―そうか・・・中国に連れて行かれるのだわ。葉導師はもともと中国人。しかも特務機関と関係があったと言うから、そこに連行される・・・私をどうしようと言うのかしら?
 あの与那国での経験以来、池住は心も体も完全に女になっていた。
―どんな目に遭っても構わない。私はずっと葉導師の信者。再会できるまでどんなことでも耐えて見せる!

 船がどこかの港に着岸したようだ。
 しばらくすると、漁船員らしい屈強な男が二人、部屋に入って来て、蓮蓮の両手を縛り、目隠しをさせて外に連れだした。ドアの出っ張りによろめくと、舌打ちをして体を担ぎ上げた。
 潮の匂いや魚の腐ったような臭いがする。
 やがて車の中に放り込まれた。
 ガタガタ道をジグザグに進むんで車は急に停車し、そこから引っ張り出された蓮蓮はビュンビュンと言う轟音と強風から、今度はヘリコプターに乗せられるのだと思った。
 空に舞い上がったそれは、やがて数時間の飛行の後、着陸した。
 やがて建物の中の一室に入れられ、そこでようやく目隠しがはずされたが、そこが訊問室のような場所であることはすぐにわかった。
 目の前に居るのは人民服を着た中年の人物で、この施設の長のように見えた。
 周辺にはさらに数名の、同じような服を着た男たちがおり、一人だけ女性がいた。
「中国語はわかるか?」
 蓮蓮は、
「台湾語なら少し話せますが、北京語はわかりません」
と、わざと日本語で答えた。
「それにしても見事な技術だ。まるで女だな。喉ぼとけまで削ったんだ。ほら、こいつの男時代の写真だ。まるで別人・・・これが、あの劉の仕事とはな」
 蓮蓮は葉とその部下たちから北京語も習っており、すぐにわかったが、何をしゃべっているのかわからぬ素振りをしていた。
「あなた、ホント、女ですか?」
人民服姿の女性がたどたどしい日本語でそう聞いた。
「いえ、男でした。台北で手術をして生まれ変わったのです」
「何病院?」
「確か・・・劉と言う美容整形のお医者さんでした」
「こんな骨ばった体つきが女性に変わるなんてな・・・」
「手術は何しました?」
「ずっと眠らされていたので何をされたかわかりませんが、体中の包帯を取られた時は自分でも驚きました」
「あそこまで精巧につくられているらしいな」
 長官らしき男はそう言って股が丸見えの写真を蓮蓮に突き付けた。
「気に入った。明日からみっちりと仕込め! そうだ。こいつの名前は今日から竹蓮蓮だ」
―仕込む?

与那国奇譚 池住のこと

 こうして葉は日系人マリア・ヨナハとなってアメリカへ脱出した。
 少し遅れて与那覇の家に突入した中国の秘密諜報員たちは地団駄を踏んだが、米軍基地の軍属になっている仲間の通報で葉らしい女性がすでに軍用旅客機でアメリカに去ったと聞いて、すぐに本国に次の手を打つよう連絡した。
 葉が次にどのような行動をするのかがわかったからである。

 さて、池蓮蓮となった池住はその後どうしているのだろうか?
 藤田夫妻の見張りを在日台湾人の信者に頼んで葉や奥平と那覇に入り、与那国の寺院建設地の視察を終え、那覇に戻り、ホテルで念入りに奥平、花城、そして上原への「絶頂洗脳」を施している時、台湾から「緊急事態発生」という連絡が入り、いわば絶体絶命の窮地に立ったのだが、葉は奥平たち放ったらかしにして遁走した。その際、随行の女性信者たちへ指示したのは、与那覇が経営するおかまバーやお持ち帰りクラブへ隠れることだった。
「1,2年経てば騒ぎは収まり、誰も気にしなくなる。そうしたら中琉交流協会などを使って帰国しなさい。聖媧教のことなど絶対に話してはいけません!」
 池住は那覇の歓楽街にあるおかまバーのホステス(?)になった。
 真真理乃運命の変転に驚いたものの、与那国で経験した奇蹟を忘れられず、いつか葉が助けに来てくれると信じて、かつてのホストクラブの連中と仕事に精を出し、それなりの収入も得て葉がアメリカに逃げ出す頃にはおかまバーのママになっていた。
 しかし待てど暮らせど葉や教団幹部から何の連絡も来ない。
 一方で、お持ち帰りクラブのホステスになった女性信者たちは次々に姿を消していた。
「やあねえ、あの娘たち、どうやら中国のスパイに捕まって国に連行されたようよ。もともと中国各地から台湾に密入国したと言うから、あんなことになって、きっと口封じで消されたんでしょうねえ・・・」
 池住と同じように女性になる手術を受けた元ホステスはなげやりな感じでそんなことを蓮蓮ママに話した。
「・・・私たちはどうなるのかしら? 台湾から来たスケベ客の話だと、基隆の聖媧宮なんて聞いたこともないって・・・完全に消されたのよ。こうなったら教わった秘術を使って暮らしていくしかないわ」
「あたしたちも捕まるのかしら?」
「与那覇さんが居る限り問題ないでしょ。だって、オーナーの奥さんって実は・・・ああ、これ、内緒、内緒!」
「やっぱりそうなのね。あの白髪頭のおばさん、どことなく似ていたもんね。それにカミさんに収まった時期もたしか同じ頃・・・でもよくあれだけ化けられたわね。あの年齢不詳の美女がああまで変身するなんて・・・」
「ここに挨拶に来た時、あたしピピッと来たの! 頭の中がいじられたみたい。導師様がどんな人だったか、まるで思い出せなくなったのよ。そんなことできるのは導師様しかいない」
「私は何も感じなかったわ。ただ、あそこがジーンと痺れたの。それから無性に男が欲しくなった!」
 そう言いながら、蓮蓮は心の中で葉を憎んだ。
 言いなりにならなければ、こんな体にされなかった。若手のコンサルタントして今流行りのコンピューターエンジニアになれたかもしれないのだ。こんな場末の歓楽街であと何年生活できるのだろうと思うと悔し涙が出て来た。
「あら、あなた泣いてるの? そうよねえ、あなたは導師様に愛されて変身したのね。教団のホープだった。やがては与那国神殿の長になるはずだったものね。でも、いいじゃない。あのスケベの徐さん、あなたを台湾に連れて帰りたいそうじゃない。あの人、大金持ちらしいから、玉の輿よ」
「やめてよ! ああ、でも、またあの時の絶頂を味わいたい!」
「そうね、私も!」

 葉がアメリカに去ってからしばらくした頃、蓮蓮はスケベ徐の言うことを聞いて台湾に移住することにした。
 しかし蒋介石国際空港に到着し、徐の迎えの車に、徐に促されるまま乗ると、車は徐を残したまま急発進し、両隣に座った黒メガネの男たちに羽交い絞めにされ鼻をハンカチでくるまれると、そのまま意識を失った。
 気が付くと裸にされ、宙づりになっていた。
「なるほど・・・こういう構造になっているのか・・・よくもそっくりに作られたな・・・いい眺めだ。やりたくなっちゃったぜ」
 目の前には凶悪そうな顔をした男がニヤニヤしながら蓮蓮の股間を覗いていた。
「あんたは誰なのよ? 徐董事長はどこ?」
「まあまあ、そんなに大声を出すなよ。もっとも出しても誰にも聞こえねえからな」
「私を一体どうしようと言うのよ!」
「葉はどこへ居るんだ! 言わねえとただじゃ済まされねえぜ!」
「知るはずがないでしょ! 私は騙されたのよ!」
「ま、いい。しばらくこのまま放っておけ!」

与那国奇譚 葉、アメリカへ

 葉にためらいはなかった。
 もともと、内蒙古の砂漠に捨てられた孤児だった。
 モンゴル族の羊飼いに発見され、その家族として育てられた。
 利発な性格で羊がすぐなつき、まるでこの小さな少女がボスのように、その行く所についていくようになり、しかも狼や野犬の襲撃も予見し、水場や草地もすぐに発見する賢さは、家族のみならず同業者の間で評判になり、やがて内蒙古自治区の役人の耳にも届くようになった。
 当時の中国では、文化大革命末期で、ソ連が超能力者を育成して冷戦に対処しようとしていることを知り、同じように超能力者を育てようという機運がたかまっており、全国各地からIQ指数の高い少年少女を集めるのに躍起になっていた。内蒙古でも同様で、高英棠と名付けられていた6歳の少女は省都、フフホトに連れて行かれ、いくつものテストに合格して北京にある超級功能培育所の研究生となった。
 そこで高(葉)は数々の能力を開花させた。透視力、読心術、催眠術、操脳術、幻視術等々である。
 その特出した才能を評価した所長は、たまたま視察に訪れた共産中国の英雄の一人、葉剣英に彼女を紹介したところ、その非凡さに驚いた葉剣英は、彼女を養孫にしたいと希望した。こうして彼女は高英棠改め、葉如蘭と名付けられたが、養祖父である葉剣英の元に行くことはなかった。
 葉剣英は毛沢東没後の国政を担うようになり、多忙だったことと、自分に断りなく勝手に養子を決めたとして、息子の葉選平が受け入れを拒否したからである。いわば宙ぶらりん状態となったが、彼女の名声は北京にも届き、特に特務機関ではアメリカに潜入しているスパイ情報の真偽判定や、秘密裏に帰国した特務たちの読心、心理操作などに招かれて評価されるようになった。
 成人した葉はやがて控性院と言う名の秘密組織に入れられ、そこで様々な性技を仕込まれることになった。敵の男を操作して操り人形にする技術は、古代中国からの伝統的な秘術で、孫子の兵法にも記載されている。
 やがて彼女は手の込んだ方法で中国が併合を考えている台湾へ派遣されることになった。
 たまたま、日本のテレビ局が、ユリゲーラをはじめとする世界の超能力者の集合番組を制作することを知った中国側は、代表として葉如蘭を派遣することにしたが、」その際の秘密指令は、日本に居る工作員と結婚し、日本に留まることだった。高一成と言う男で、帰化し、高田和成と名乗っているという。
 無事、番組の収録を終えた葉は、街で出会った高と「恋に落ち」、帰国することなく結婚。高田蘭子になり、中国大使館もすぐにそれを認め、葉は日本人になった。次なる秘密指令が来たのはそれから3年が経った頃だった。
 日本語も淀みなく流暢に話せるようになった彼女が、次に指示されたのは台湾語の習得で、両国で台湾式マッサージの店を出す陳宝玉と言う女性にマッサージと台湾語を習うようになった。
 台湾語は、中国の標準語である北京語とはまるで違う。閩南語と言う、福建省で話されている言葉で、この地方から多くの農民が、明王朝の圧政を逃れるため台湾に密航し、やがてそれが台湾語になったため、清王朝以降主流となった北京語とは通じない。タ行発音(チャチチュチェチョ)が多い北京語に対し、台湾語はカ行発音(カキクケコ)が多く、漢字も北京漢字に無い難解な字が多い。
 同時に葉は中国の古代伝説に関する本の多読を指令された。さらに秘密結社の歴史や道教系の宗教経典などである。
 要するに、迷信やお呪いが好きな台湾で、新興宗教を起こし、それを使って台湾、次は琉球にそれを広め、近い将来の中国支配の基礎作りを行えと言うことなのだ。
 このようにして高田蘭子はいつの間にか夫と離婚し、中国に帰国したように見せかけて台湾に移った。そして中国から秘密ルートで送られてくる豊富な資金を使い、また同じように密航してくる若い男女を信者にして聖媧教を立ち上げたと言う次第だったが、台湾独立運動に加わっている趙が調べ上げた葉の前歴が暴露されたため、台湾、そして日本、さらに指令元である中国の特務機関からも追われる身になったという訳である。
 何人もの特務仲間の悲惨な末路を見ているだけに、葉は秘密機関の怖ろしさを熟知しており、それだけにアメリカに身を売るのに何のためらいもなかった。
 男女の道のからくりさえ知っているだけに愛情や恋などとも無縁。
 頭にあるのは、どのようにしてここの領事館員や入国後のアメリカでCIA幹部を誘惑するかと言うことだけである。
 葉がまず行ったのは、領事館員に頼んで美しく変身することだった。
 みすぼらしい白髪で皺だらけの顔を変貌させ、最新のファッションで身を包んで白人男性たちを虜にする・・・しかし顔の作りはかつての葉導師に似ていてはまずい。やがて数日経つうちに葉は見違えるように美しくなり、名前もマリア・ヨナハと言う名の日系人パスポートを取得した。
 後は飛行機に乗るだけである。しかもそれは普通の航空便ではない。
 沖縄にある米軍基地から出る軍専用の旅客機での出国で、行き先はニューヨーク近くの軍事基地だった。
―ああ、これで私の今までの忌まわしい思い出と決別できる・・・。

与那国奇譚 葉の生き延び作戦

「IBCむ無くなっちゃった。そりでぃ藤田さんは会社を作ってぃに、すくに中国の太子党ちゅう建国の英雄二世が日本企業誘致に来たぬに便乗して何社か紹介したら喜ばりて招待さりたらしいよ。今度は百万人が住む新都市計画に日本企業を誘ってるらしい」
「甘い口車に乗って、また失敗するんじゃないぬ?」
「あぬ人、人をすぐ信じるからなあ。あぬ時も葉なんてぃ信じて・・・」
「うちら、今でむ公安のブラックリストに載ってるらしいさ」
「そりにしてむ中国の勢いはしゅごい!」
「何でも、沖縄しゃん、中国にいらっしゃいちゅう動きが加速してるらしゅいゆ」
「沖縄独立運動の連中かい? 中国に招待されてぃるさ」
「やりやり・・・」

 花城と上原がそのような飲み話をしている中、沖縄女性の与那嶺瑞枝に化けた葉は、匿ってくれた夫が幹部でもある旭琉会と台湾の竹聯幇の関係をつたって台湾への密航を考えていた。
 人の噂も70日で、今では聖媧教のことなど誰も気にしなくなっており、台湾に潜むかつての幹部たちからも、早く帰台して別の秘密組織を作ろうと言う誘いがたびたび来ていた。
 しかし葉はためらっていた。なぜなら、中国の特務機関に属していたことが暴露されてから、葉は台湾のみならず。中国や日本でもお尋ね者なのだ。
 台湾に密入国しても密告されたら一巻の終わりになる。
 すべてを吐き出されて秘密裏に処理される。それに台湾にいる中国の秘密諜報員たちも拉致と中国への秘密裏送還を狙っている。
―ああ、何とかアメリカに逃げられないものか・・・。
 葉にとって今やアメリカが唯一の生き延びられる国になっていた。
―そうだ・・・アメリカで今までのことを洗いざらい話せば、CIAの保護下になって生き延びられる!
 どのようにしてアメリカに密入国できるかが葉にとって最重事項になっていた。那覇からアメリカへの直行便は無い。どうしても大阪か成田の空港で乗り換えなければならず、パスポートチェックも9.11事件の直後だけにかなり厳しそうである。
 それに、英語はまるでできないし、アメリカに到着しても、どうやってCIAまでたどりつけるか自信はない。
 あれこれ悩んでいると、夫が、
「いよいよやばくなってきた」
と自宅に駆け込んで来た。
「どうしたの?」
「ウチの組織が指定暴力団になっちまいやがって、子分がどんどん摘発さりているんだ。どうやら俺も逮捕さりるかもしれねえさ」
「そうなったら私はどうなるの?」
「まず放っとかりるはずねえ。ばりちまうだろさ」
「じゃ、逃げ出さなきゃ」
「逃げ出すって・・・どこに?」
「そうねえ・・・」
 その時、葉の頭が閃いた。
 ―そうだ! ここのアメリカ総領事館に逃げ込もう。理由を詳しく話せば保護してアメリカに送ってくれるかもしれない。でも亭主には内緒、内緒・・・。
「ちょ、ちょっと台湾に電話してくる」
 盗聴などされないと思われるが、万が一のことを考えて、台湾との連絡はいつも赤電話だった。台湾からは暗号電報。「お元気ですか?」が「至急連絡乞う」で、「また会いましょう」が「逃げろ!」などが、かつての聖媧教の連絡方法の日本語版になっている。
「気を付けてぃな。俺はいろんなものを片付けてぃる」
 サンダルをつっかけた葉は後も見ず、そのままアメリカ総領事館に駆け込んだ。最初は疑っていた館員も、話が中国の特務機関のことに及ぶと、真剣に耳を傾けだした。5、6時間にも及ぶ会見の後はそのまま館内の1室で待機させられ、そのまま食事をあてがわれて泊まることになった。
 翌朝、再び面会室のような所に呼び出された時は、疑いが晴れたのか、館員の応対は前日と比べ、随分丁寧なものになっていた。しかもアジア系の女性の館員がそばに居る。
「你好!」
 恐らくは中国系アメリカ人なのだろう。この日は中国語での取り調べになった。特務機関の詳しい組織や存在場所、幹部党員の名前や略歴、1990年代の中国で起きた㊙事件など、内部を良く知らなければわからないことを聞かれ、最後に、なぜアメリカに亡命したいのかと質問された。
 葉は隠せばかえって疑われるばかりだと悟り、洗いざらい、今までのことを話した。すでに昨日から何度も話したことだが、情報機関の常套手段としては少しでもいい間違いや前と違う答えがあれば、そこを徹底的に追及される。
 葉は淀みなく、自分がしたことはすべて中国の特務機関からの指示で行ったことを伝えた。